ピースエッグ2018 in 岡山
9月15日と16日に、日本平和委員会主催のピースエッグ2018in岡山に参加しました。
備前市にある閑谷学校が会場です。オープニングで3日間共に学ぶグループ分けをしたのですが、渡された資料の中にカードが入っていて、岡山の名産品「ぶどう」と昔話「桃太郎」に登場する青鬼のイラストが描かれていました。同じくぶどうのカードを持っている人たちで集まると「桃太郎一味」と「鬼たち」が揃う!という工夫がされていました。高校生、大学生、社会人の8人でした。

↑実行委員会が作成した横断幕。岡山の名産品デニムの生地が使われています!
🍇 🍇 🍇 🍇 🍇
初日は分科会が行われ、国立ハンセン病療養所・長島愛生園のフィールドワークに参加しました。最初にガイドの方から歴史館で説明を受けました。長島愛生園は1930年に日本で最初の国立の療養所として設立され、現在入所者161人、平均年齢86歳、在園年数61年です。ハンセン病は「細菌(らい菌)による慢性の感染症」で、症状は皮膚病や神経症です。初期の治療法は太風子油(たいふうしゆ)の注射や丸薬での服用でしたがほとんど効果がありませんでした。その後プロミンという特効薬が使用され、現在は多剤併用療法によって簡単に完全に治る病気です。説明の途中でガイドさんが湯呑みを見せてくれました。これは皮膚の感覚が無い患者がやけどをしないように二重に作られているものでした。ハンセン病患者の隔離政策は1907年の「らい予防に関する件」に始まり、1931年「らい予防法」で強制隔離が開始、1996年「らい予防法」廃止に至るまで、89年間も続きました。
ハンセン病は怖い病気という誤った認識が患者を苦しめました。視聴した入所者(元患者)の方の証言映像では“長島へ行くくらいならここで死ぬ”と思ったことや、親族から“もういない存在”とされたことなど、差別と偏見によって辛い思いをしたことが語られました。

↑歴史館は以前は事務本館として使われていた

↑歴史館から見える景色。手掛島(中央)には入所者が建てた長島神社がある。奥に見えるのは小豆島。
その後は、ガイドさんと共に園内見学をして5か所の史跡について説明を受けました。中でも印象に残っているのは、1つに「収容所」(回春療)です。入所するとまずここへ収容され、検査や手続き、現金の取り上げ、持ち物の消毒が行われました。室内には消毒風呂とベットが沢山並んでいた部屋がありました。

↑大人が膝を曲げて入るくらいの小さな風呂

↑ここにベッドが沢山並んでいた
もう1つは「監房」で、ここは逃走した入所者を収監するところでした。1週間、食事回数が減らされまともな治療も行われませんでした。1953年らい予防法改定により廃止された後、一旦埋められましたが掘り起こされ、今は外壁の一辺が見えるかたちで残っています。

↑壁の高さは3m。掘り起こした後に壁を支える階段が作られた
丘を登ったところには納骨堂がありました。園で亡くなった方約3600柱を超える遺骨が納められています。ガイドさんが「ハンセン病への偏見はなくさないといけない。けれど故郷へ戻れない沢山の遺骨が納められているこの納骨堂は残さなくてはいけないと思います。」とおっしゃていたのが印象的でした。長島愛生園で多くの方が亡くなりましたが、退所した方も約12000人います。しかし、自分がハンセン病であったことを周囲に言えないという方が多く、私と同じ社会の中で辛い経験を隠して生きている方がいるかもしれないと思うと、語りたくない気持ちと、現在も残る偏見があるのではと思いました。
長島と本土をつなぐ“邑久長島大橋(人間回復の橋)”が掛かったのは30年前の1988年でした。わずか22メートルの海峡をつなぐのに長い差月がかかりましたが、この橋によってハンセン病療養所と社会が繋がりました。
ハンセン病療養所を初めて訪れましたが、ここがどういう場所なのか、どんなことが行われていたのか、実際に跡を見たり説明を聞くことができたのは貴重な機会でした。道の整備や建物の建設も入所者が行っていたことや、優生保護法の対象にハンセン病も入ったことも含めて、管理・隔離によって人が人として生きることが出来なかった多くの方の苦しみと、差別・偏見をもたらした国の誤った政策があったのだと知りました。ハンセン病について正しく知り、偏見のない社会が必要だと思いました。
🍇 🍇 🍇 🍇 🍇
夜は全体交流会があり、グループ対抗ピンポン玉リレーをしました。使う道具は、うちわ・フライ返し・スプーンなど。くじ引きで決めたのですが、私のグループは2回戦とも菜箸!“掴むのではなく上に乗せよう”ということで頑張りましたが5位に終わってしましました..。その日出会った人とすぐにゲームで打ち解けられるというのは青年らしいなと思いました。
つづく.....。
書いた人:R.Y
備前市にある閑谷学校が会場です。オープニングで3日間共に学ぶグループ分けをしたのですが、渡された資料の中にカードが入っていて、岡山の名産品「ぶどう」と昔話「桃太郎」に登場する青鬼のイラストが描かれていました。同じくぶどうのカードを持っている人たちで集まると「桃太郎一味」と「鬼たち」が揃う!という工夫がされていました。高校生、大学生、社会人の8人でした。

↑実行委員会が作成した横断幕。岡山の名産品デニムの生地が使われています!
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初日は分科会が行われ、国立ハンセン病療養所・長島愛生園のフィールドワークに参加しました。最初にガイドの方から歴史館で説明を受けました。長島愛生園は1930年に日本で最初の国立の療養所として設立され、現在入所者161人、平均年齢86歳、在園年数61年です。ハンセン病は「細菌(らい菌)による慢性の感染症」で、症状は皮膚病や神経症です。初期の治療法は太風子油(たいふうしゆ)の注射や丸薬での服用でしたがほとんど効果がありませんでした。その後プロミンという特効薬が使用され、現在は多剤併用療法によって簡単に完全に治る病気です。説明の途中でガイドさんが湯呑みを見せてくれました。これは皮膚の感覚が無い患者がやけどをしないように二重に作られているものでした。ハンセン病患者の隔離政策は1907年の「らい予防に関する件」に始まり、1931年「らい予防法」で強制隔離が開始、1996年「らい予防法」廃止に至るまで、89年間も続きました。
ハンセン病は怖い病気という誤った認識が患者を苦しめました。視聴した入所者(元患者)の方の証言映像では“長島へ行くくらいならここで死ぬ”と思ったことや、親族から“もういない存在”とされたことなど、差別と偏見によって辛い思いをしたことが語られました。

↑歴史館は以前は事務本館として使われていた

↑歴史館から見える景色。手掛島(中央)には入所者が建てた長島神社がある。奥に見えるのは小豆島。
その後は、ガイドさんと共に園内見学をして5か所の史跡について説明を受けました。中でも印象に残っているのは、1つに「収容所」(回春療)です。入所するとまずここへ収容され、検査や手続き、現金の取り上げ、持ち物の消毒が行われました。室内には消毒風呂とベットが沢山並んでいた部屋がありました。

↑大人が膝を曲げて入るくらいの小さな風呂

↑ここにベッドが沢山並んでいた
もう1つは「監房」で、ここは逃走した入所者を収監するところでした。1週間、食事回数が減らされまともな治療も行われませんでした。1953年らい予防法改定により廃止された後、一旦埋められましたが掘り起こされ、今は外壁の一辺が見えるかたちで残っています。

↑壁の高さは3m。掘り起こした後に壁を支える階段が作られた
丘を登ったところには納骨堂がありました。園で亡くなった方約3600柱を超える遺骨が納められています。ガイドさんが「ハンセン病への偏見はなくさないといけない。けれど故郷へ戻れない沢山の遺骨が納められているこの納骨堂は残さなくてはいけないと思います。」とおっしゃていたのが印象的でした。長島愛生園で多くの方が亡くなりましたが、退所した方も約12000人います。しかし、自分がハンセン病であったことを周囲に言えないという方が多く、私と同じ社会の中で辛い経験を隠して生きている方がいるかもしれないと思うと、語りたくない気持ちと、現在も残る偏見があるのではと思いました。
長島と本土をつなぐ“邑久長島大橋(人間回復の橋)”が掛かったのは30年前の1988年でした。わずか22メートルの海峡をつなぐのに長い差月がかかりましたが、この橋によってハンセン病療養所と社会が繋がりました。
ハンセン病療養所を初めて訪れましたが、ここがどういう場所なのか、どんなことが行われていたのか、実際に跡を見たり説明を聞くことができたのは貴重な機会でした。道の整備や建物の建設も入所者が行っていたことや、優生保護法の対象にハンセン病も入ったことも含めて、管理・隔離によって人が人として生きることが出来なかった多くの方の苦しみと、差別・偏見をもたらした国の誤った政策があったのだと知りました。ハンセン病について正しく知り、偏見のない社会が必要だと思いました。
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夜は全体交流会があり、グループ対抗ピンポン玉リレーをしました。使う道具は、うちわ・フライ返し・スプーンなど。くじ引きで決めたのですが、私のグループは2回戦とも菜箸!“掴むのではなく上に乗せよう”ということで頑張りましたが5位に終わってしましました..。その日出会った人とすぐにゲームで打ち解けられるというのは青年らしいなと思いました。
つづく.....。
書いた人:R.Y